実家に帰ってきました。今年はひっそりと年を越えそうです。年末特番やらを特に楽しむこともなくぼんやりと眺めていようかと思います。もし本当にそうなるのであれば適当に自分でなにか企画して、ひとりでぼんやり楽しもうかと考えています。実に数年ぶり。そっちのほうが案外楽しいのかもしれないね。

年明け一発目のゼミで発表があるので夏休み中に製作したレポートをもとに、少し発展させた内容の発表をしなければならなくて、急いで適当に幾つか本を見繕ってかばんに詰め込み、そして自分のパソコンも乱雑に詰め込み、実家に帰ってきたわけなんだけど、全然資料足りないのね。たぶんこの状態でもなんとか発表は体を成すんだろうけども、そうするにはものすごく理解力とか応用力を発展させないと不可能だと思うのよ。そんで持って帰る予定だった資料も幾つか京都に置いて帰ってきてしまうし。もー。

実家に帰っての思い出探しは最早恒例で、夏休み中のログを見てくれれば分かると思うけれど、昔の手紙やら日記、音源やらを掘り返して過去について思いを巡らしてみるのです。で、今回もあーだこーだ考えてしまうのです。昨年は思い出に完全に引き摺られ、本来あるはずの今の自分を忘れてしまうことが多かった。だけども今年の夏からはそれが思い出とかではなくて、完全に情報、記憶として処理されてることに気が付いたのよね。呪縛から放たれた!とか言えば聞こえは良いけれど、それはそれで少し寂しい感じもしないでもない。同情というか、それと似たような感じ。どうなんだろう?

で今回今の自分を過去と照らし合わせて色々と考えてみました。実家に帰ってくる前に大阪のカメラマンさんと話す機会があって、そこで仕事の話しとか、今の俺のこととかを丁寧に且つ手厳しく話してくれたのね。その人は前回、夏にビアガーデンに誘ってくれた人で、厳しい!てのが有名だけど寝は凄く優しい人で。前に『お前の写真にはお前の主張が無い』と言われて、自分でも思っていたことだけにグサリと来て、半分泣きながら帰ったのを覚えてる。今回は仕事でヘマしてしまって怒られて。しょんぼりしつつも一緒にご飯を食べて、一緒に帰った。帰る方向が一緒で色んな仕事の現状を教えてくれ、最後にはまた俺の話になった。『お前にはまだ迷いがある。なんでそれを払拭しようとしない?』これもまた的確で的確すぎて、電車の中にもかかわらずまた泣きそうになり、ぐっと我慢した。

ここで考えてみるのだけど、俺ってばそこまで自分を我慢する人間では無かったよなーと。なんでこーなったのかなーと。色々と考えてみるとやっぱり俺が某かの物事に対する判断の方向性が歪んでたんだなーと。

まず何かを考えるに当たり、今、というものを考えるのではなくて過去を考えてる。『なんであんなことしたんだろー』的な考え方。まず、なんで、から入る時点でこれは自分のなかで否定されていて、それを否定していると認識することが肯定に繋がる、と考えているからなんだと思う。なんでか物事を否定、ほんで悲観的にはいることが多い。簡単に言えば失敗を改善し次につなげるのであれば、ただその時に事務的でも良いから正解の判断をし、そこに至る経緯なんぞとんと無視し、行動にはいればいいのに、なかなかそうもいかないことが多い。んでまたこれはなんでなんだろーと考えてみると、自分は数式よりも答えを望んでいて、答えから数式を推測する行為が大好きなんだなーと。だから何かひとつ明確なものが無いと自分は積極的に考えることや、何かに参加することは出来ないのかなーと。考えてしまう。

これから自分がやりたいことをやっていくうえで、このような考え方ってのは本当に邪魔臭くて排斥、改善したいもんなんですよね。たぶんどこかをひねればなんとかなるんじゃないかなーと思うんだけど。もう少し時間はかかりそうだけど、そこまで暗い話じゃないと思うし。今は今で自分が実家に居ることを堪能して何かしら行動出来ればそれでいーかなと淡い目標を打ち立てています。