実物を見る前に仕上がり迄を想定してから撮影に挑むとかなり円滑に進むみたい。全てが全てイメージ出来るわけではないんだけど、少なくとも今回の鳥取砂丘原爆ドームはイメージがし易くて、撮影も非常にし易かった。現像の仕方も引き伸ばし方も撮る前からある程度計算してた。つか付随させようとしていたものが明確だった、んだと思う。けどもそのイメージは模倣に近いものがあって、自分が作ったもの、という点を除いてはなかなかオリジナルとは言えない気がする。

大阪で見た杉本さんの建築の写真のキャプションを見て、ああなるほど、と深く納得してしまった。数式から作り出された立体を撮影したのもそう。たぶん言語っていうツールからの脱却を試みていて、やっぱりそれが写真作品なんだろうなぁと。

僕が付随したイメージはまだ言語に潜む影のようなもので、まったく逆でしかない。正直じゃない、とも言える。けれど写真だけじゃなく、諸々の方向性に於いて僕が求めている、探求しているものは杉本さんのそれなのだ。模倣を繰り返すうちに全てが模倣ではないか、と疑心暗鬼に陥る事もあるかもしれないけれど、それでもその経験は審美に繋がると思うし、意味が無いことでは無い筈だ。常に枠の中にいるような気がしていても気が付いたら足の小指だけ枠の外に出ていた、なんてことだってきっとあるはず。