ソーゾーせよ自分に言う。

家族一家全て流されてなくなって、絶望して自殺した被災地にいた方の話を新聞で読んで知ったんだけど、それが、新聞に載るくらい少ない出来事なんだと知って驚いた。自分はその絶望の中で望を信じる事が出来るだろうか。ひしゃげて諦めてしまうんではないだろうか。人は強いな。もっとあってもおかしくないと思ってた。僕も、いざという時は考えてしまうに違いない。

ロジックの中の感動は解明した瞬間こそ眩しく光るけど、それはなかなか心を灯す光にはなりにくく、一種の躁状態しか生み出さない事が多いと思う。それはとても大きなとっかかりだけど、そこから自分のメンタルに組み込んで、日々の行動の細部に落とし込むのはなかなか難しい事だ。きっとそれも絶望の望を信じる事になるのだろうけど。極端な話、望すら信じなくても、何か、を信じる力さえあれば、なんとかなるのかもね。

ある種の同音異義語、類義語、対語、のなかに差を見付け、我が身を振り返るのはとても有意義。鏡の自分を見るのと一緒。ただ鏡があればこその効果に終わってしまう事も多いような。

何かに気が付いたのならば、その方程式から、日常を想像する事がとても大切なのだなと、ふと思った。いままでそういったコトは経験による積み重ねから産まれる無意識でしか出来てない。気付きを未来に生かせてなかったね。