ニヤーヤ学派について

 ・ニヤーヤ学派の16の体系について
 
 ニヤーヤ学派の開祖ガウタマ(足目 AD50〜150頃)は、ニヤーヤ学派の根本経典『ニヤーヤ・スートラ』を編纂した。前述したとおりニヤーヤ学派は認識手段と論争の仕方を重視した学派である。ニヤーヤ学派の体系は、『認識手段』、『認識対象』、『疑惑』、『動機』、『実例』、『定説』、『論証肢』、『検証(熟考)』、『決定』、『論議』、『論争』、『論詰』、『誤った理由』、『詭弁』、『誤った非難』、『敗北の立場』、と十六の項目について詳細を論じている。形而上学や解脱論なども含んでいるが、知識論、論理学を主たる領域としている。これからはその十六の項目について説明していく。 
 認識手段というのは正しい知識を得る為の4つに分かれた手段のことで、直接知、推理、類比、証言に分かれる。その説明は以下の通りである。 
  直接知・・・感官の対象との接触から生じる。言い表されず、誤りが無く決定性のある知識。
  推理・・・直接知に基づいて、証因から証因を有するもの、を推理する知識。
  類比・・・Aと以前からよく知られているBとの類似性に基づいてAを知る知識。
  証言・・・信頼すべき存在からの教示。ヴェーダ聖典もこれに含まれる。
これらの認識手段を用いて認識対象を認識していく。
 その認識対象とはアートマン(霊魂)、身体、感覚器官、感覚器官の対象、知覚(内官、意)、思考器官、活動、欠点(過失)、転生、行為の報い、苦、解脱にあたる。 アートマンは身体、感覚器官、思考器官とは異なる。アートマンは直接知によって認識されることはないが、その存在を示す『欲求、嫌悪、意志、快感不快感、認識』が経験されるからその存在を推理することが出来る。アートマンは一切を見聞し、経験し、知る主体である。人生は苦に満ちているがその苦は人間が生まれることに基づいている。人間の生存は人間の活動に基づいていて、活動は人間本来の貪欲、嫌悪、迷妄などの欠点に基づく。この三つのうちの迷妄は貪欲や嫌悪を付随して起こるものである故に、最も悪いものだと言える。迷妄、即ち誤った認識によっておこるものであり、これが苦しみを招く究極の根源といえる。その誤った認識を正しい認識をもって除去し、苦からの完全なる自由、解脱を達成する。
※ここでいう解脱は先述したとおり『苦からの完全なる自由、完全に苦しみから解脱すること』ということであって、ヴェーダーンタ哲学における解脱(アートマンの常住安楽なる本体が顕現する、という考え方)とは違い、これを排斥している。アートマンすなわち霊魂は、その本然の姿において存在し、なにものにも束縛されない。ニヤーヤスートラには『煩悩を捨てた人は活動をなしても再生には向かわない』と書かれている。ここでいう活動というのは先述した認識対象に含まれる活動のことである。
※苦を発生させる誤った知識(認識)から苦に至るまでの考え方の詳細
 苦しみとは我々を悩害するもの、我々にとって不快適に感じられることである。
『苦しみは我々に害をなすことを本質としているものである。欲しない対象、即ち毒などが接近する時に、欲さないものを知覚する感覚器官と対象の接触に基づいて、悪の潜在能力(アダルマ)などに依存するアートマンと意(マナス)との結合から、怒、不快感、落胆の原因たるものが生起する。それが苦しみである。過去に経験した蛇、虎、盗賊などについての苦しみは想起から生じる。未来のものについての苦しみは思惟から生じる。このように人生は苦しみであるという根本的立場に立っている』(ニヤーヤ学派の主張でもあり、他の学派との共通解釈でもある)というのが仏教や印度学の中では一般的な考えである。
 次に疑惑から定説に至る4項目については、次の論証肢にあたるまでの過程を示している。論証を行うときにまず『疑惑』が発生する。その『疑惑』を解決しようとする『動機』が発生する。解決するためには多くの衆生が認める『実例』が必要になる。このようにして提示されたものが『定説』となる。
 論証肢は五分作法という論式で示される。
※五分作法の形式
  一、主張(宗)かの山は火を有するものなり。
  二、理由(因)煙を有するが故に
  三、実例(喩)何物なりとも煙を有するものは火を有するものなり。例えばかまどの如し。
  四、適用(合)煙あるかまどのごとく、かの山もかくの如し
  五、結論(結)故にかの山は火を有するものなり

 検証から敗北の立場に至る残りの9項目の流れは、論証肢を用いて真相を知るために『検証(熟考)』を行い、それを主張するかしないかの『決定』を行う。そうした主張者(立者)と反対主張者(敵者)とが前述した五分作法に従って論じ合う。それが『論議』にあたり、五分作法に従わず、不正が入り込んだものを『論争』という。五分作法を立てないで相手の立論を非難することを『論詰』という。立論するにあたって、誤った理由を提示してしまうことがある。それを『誤った理由』と言う。相手の主張者の言葉を勘違いして非難することを『詭弁』という。主張者が正しく論証したことを反対主張者が不正に非難することを『間違った非難』という。そういった誤解や不理解によって論争に敗北することを『敗北に至る場合』という。

−以上、前回発表したレジュメに若干の修正を加え書き直してみたものである。
それを読み返し、様々な質問に対しての自分なりの解釈、考察を以下に幾つかあげてみる。

・認識手段に関して
四つの手段が挙げられているがその各手段をどのような場合に使うのか、それぞれの違いについて疑問を持った。それぞれの違い、は、その各々の特徴としてこそあげられていたけれど決定性に関しては四つすべて同じ程度の決定性があるわけではないということ。それを詳しく考えてみた。
 まず直接知について。『感官の対象との接触から生じるもの、言い表せず、誤りがなく決定性のあるもの。』とある。そこでまず自分は普遍性のあるもの、と考えた。『山は山である』や『海は海である』等。定説として普及している情報を自分の目や耳を通じた情報と合致させ決定性を得ているのではないか、と。しかしこの直接知は幻覚や幻聴を排斥している為、このような目や耳などに依存して得る情報がそれにあたるとは言えないことになる。これが『言い表せず』という言葉にあたるのならば、直接知とは一体何なのか。
 次に推理について。『直接知に基づいて証因から証因をなすものを考えること。』とあり、直接知を元に自分の考えを付随することによって、決定性を失うことになる。それと五分作法の例文の中にある理由や実例にあたる部分も推理にあたるものが多いと考えられる。かの山が火を有することの証明に煙があること、としているが、煙かどうか、もしかするとそれは霧ではないのか、という疑問も起こる。類比に関しても推理と同じ様に決定性をもたないもの、と考えられる。
 最後に証言に関して。『信頼すべき存在からの教示等、ヴェーダ聖典もこれに含まれる。』とあるがこれも決定性があるとはいえない。ヴェーダ聖典においてはヴェーダ聖典においてはある程度の決定性を持つことが可能かもしれないが、確たる決定性を持つとは言い切れない。信頼すべき存在からの教示、というのも決定性を持ち得ないと思われる。
 こうして認識手段の四つを考えてみると、直接知以外は決定性に欠けるものである、ということが分かる。考え始めは、何故他の三つは決定性が無いのだろうか、と考えたが、よく考えてみると『認識手段』を持って『認識対象』を認識しようとし、そこに何かの『疑問』を持ち『動機』が発生し、と16の行程を踏んでいくのだから、始めから認識手段の中に決定性というものが無くても良かったのか、という見解に落ち着く。直接知だけは別で推理や類比を発生させる理由としてあるのだろう。

・五分作法に関して
 認識手段の推理のところでも書いたことだが、五分作法の理由にあたる例文の中の『煙を有するが故に、の煙の確証はどこにあるのか霧ではないのか』という疑問が拭えない。このような疑問を持ったとき、その『論議』の中でこれを言及してしまうと『論争』や『論詰』、『詭弁』になってしまうのかと考える。恐らくそのような疑問をもった時には相手の五分作法が終了したあとに自分の中で疑惑から定説への仮定を経て新たな五分作法をしていたのだろう、と推測する。

−このような疑問や自分の考察を実際のニヤーヤ学派の論議やディグナーガの見解を例にあげ考え直してみたい。

・仏教論理学 ディグナーガの認識手段の考え方
 ディグナーガ(400年〜485年頃)は仏教の新しい論理学(新因明)の創始者である。彼以前の古い論理学、すなわちニヤーヤ学派の論理学から区別するために、彼以前の論理学は古因明と呼ばれるに至った。ディグナーガの考え方はニヤーヤ学派では認識の手段を直接知、推理、類推、証言、の四つに分けて分けていたが、ディグナーガはそれを直接知覚と推論(推理)の二種類であると主張する。
『類推は、直接知覚と信頼されるべき人の言葉との両者から異なってはいない』そして『信頼されるべきひとのことばなるものは実は推論によって得られた知識である』、と
ディグナーガは類推と証言のふたつは認識手段にあたる、というニヤーヤ学派等の見解を否認した。このことについてヴァーチャスパティミシラは以下のように説明している。
『ここでは信頼されるべき言葉(証言)は〔知覚、推論とは異なった〕他の別の知識根拠があるということをディグナーガは承認し得ないので〔『信頼されるべき語(証言)とは信頼されるべき人の教示である』というニヤーヤ学派の〕定義を排斥するのである。〕』
また先のディグナーガの見解についてウッディヨータカラは以下のように少し詳しく説明している。『「信頼されるべき人の教示」とはそもそも、1.信頼されるべき人々が偽りを言わぬことである、と解するのか、2.あるいは語られたことがらがその通りであるということなのか。1のもしも信頼されるべき人々が偽りを言わぬことである、と解するのであればそのことは推論に基づいていて知られる、と言わねばならない。またもし2のように語られたことがらがそのとおりであるという意味ならば、そのことも直接知覚によって知られる(決定性のあるもの)。けだし、この人が対象を直接知覚によって了解するときに、対象がそのとおりであるということを理解するのである』最後にヴァーチャスパティミシラはこのディグナーガの解釈を裏付けた。『』尊師(Bhadanta)の説いているとおりである。「信頼されるべき人のことばは、虚位のものでないということが共通なのであるから、推論に他ならない」と。』
 推理や類推は直接知があってこそのものである、という自分なりの解釈を少し煮詰めた見解であるように思える。仏教論理学はニヤーヤ学派の見解を批判し、よりスマートな解釈が出来るようになったものだといえる。そもそもニヤーヤ学派は『論争の論理学』であって、まず最初に主張命題があげられる。内容的に言うと一つの推理と反対の趣旨の推理とのぶつかりあい、つまりそのふたつの衝突なのである。この命題というのは判断を言語で表したものである。命題が現実に表明されるときには生きている人間関係において、その判断が主張されているか、排斥されているか、あるいはどちらかであると疑われているか(未定)かのいずれかである。そのうちでもひとつの判断を主張することが先にあって次にそれを否定し、排斥することがおこる、つまり主張命題の繰り返しであると言える。この構造をさらに分析すると、ひとつの判断内容を陳述するというのは人間の行為であり、その行為は、その判断内容に対する対立的見解の存在を予想し前提としている。判断内容は調主観的なものであるかもしれないが、それを陳述するという行為は、その行為を必要とする人間的事情が存在するのであって、その判断内容と対立するほかの判断内容の存在することがはっきりしている。だから現実の判断の陳述は対立を予想している(論争を前提としている)。この構造を捉えて問題を展開していったのがインドの論理学、ニヤーヤ学派である、とされている。
 それを踏まえて五分作法を考えてみると主張命題、理由命題、実例、適用、結論の五つの中で、明らかに適用、結論は主張命題と理由命題の繰り返しである。ニヤーヤ学派がこのような論式をたてた目的は、推理の論式を出来るだけ簡潔なかたちで提示するところにあったわけではなくて、むしろ推理によって到達する確信(適用、結論を用いてそれを強調している)を他人に伝達するためにはどのように述べたら最もよく表現出来るか、という点にあったからである。これに対しディグナーガは適用、結論のふたつの項目を排除し、三つの論証肢、命題立てて論証を行う方法、三支作法を生み出し、新因明を確立した。このようにディグナーガは論争のためのニヤーヤ学派、をより簡潔化したのである。
 少し前に戻ってディグナーガは直接知についてはどう考えていたのか。まずウッディヨータカラは『しかるに他の人々は「直接知覚とは思惟を離れたものである」と考える。』というが、ヴァーチャスパティミシラによると、それはディグナーガの下した定義をここに引用しているのである。『かくのごときこの方針によって正理門論が説明されねばならない。かくのごとく〔感官器官〕と結びつくがゆえに、知は〔直接知覚である〕。それに関して〔分別〕による理解が起こされる。』この文章を説明してカマーシラは次のようにいう。『この点に関して『正理門論』は次のように述べている。−「直接知覚とは、色などの対象に関して〔種類などの〕〈区別〉と〈表示する者〉とを向く別に仮に立てることにより、思考(分別)作用を持たず、それぞれの感官器官ごとに別々にはたらくものである。」と。〈区別〉とは種類なので、〈表示する者〉とは名称である。この二つのものの一般的な仮立は種類などを有するものと名称を有するものとに関して〔一般的に仮立するものである〕。一般的な仮立という語は暗に他の意味をも含めているのである。すなわち何ものに関してでも、「それには牛性(牛であるということの一般性)がある」とか「これにはこの名がある」とか区別して、語が適用される場合には、そこにはすでに分別が立てられているのである。』
 これに関してダルマキールティが直接知覚を説明する場合は少し異なってくる。そのダルマキールティとディグナーガの所説に相違の存するところをヴァーチャスパティミシラが問題としてあげている。『じつにダルマキールティが正しい知識を問題として直接知覚等の定義を述べたように、ディグナーガが行ったのではない。ダルマキールティによると、その論題のゆえに「思惟を離れている」ということは、知識のみに限られることになるであろうか、という意味である。』すなわちディグナーガおよびシャンカラスワーミンは「誤った直接知覚」(似現量)を認める。しかしダルマキールティは、直接知覚は誤りのないものであると解するディグナーガのこの議論に対しては「しからば全ての対象は直接知覚されるものとなる」という非難が起こる。
 ここまでで確かに区別や表示するものなどで思惟を離れたところで仮立を行い、分別が行われ、それが直接知覚となる、という見解に共感を持てる。しかしダルマキールティの「それは知識のみに限られたことであろうか」という疑問も納得できる。 この問題を解決するには思惟についての考え方が重要になってくる。
 直接知覚に対してはたらく分別的思惟とは何であろうか。『思惟とは何であるか?それは名称と種類とを〔対象に〕結びつけることである。直接明白なるものとは、名称によっても語られず、また種類などによっても表示されないものであり、対象の本体に対応しているものであり、対象を限定するものであり、自己によって証知されるものである、と〔ディグナーガが説いているのを〕伝え聞く。』とある。この定義についてヴァーチャスパティミシラ説明を施す。『ディグナーガの返答をしるして「名称」云々というのである。すなわち偶然を示す語のうちで、種類に関して「これは牛である」といわれる。性質を意味する語のうちで「白い」といわれる。動作を示す語のうちで動作に関して「煮る者」といわれる。実体を示す語のうちで実体に関して「杖をもつもの」「角のあるもの」という。この思惟がある知識のうちには存在しないで、その知識が対象に関してもそれ自体に関しても思惟を離れているならば、その知識は直接明白なものである。それを述べて以上のように定義するのである。』
 さらに「自己によって証知される」という規定をヴァーチャスパティミシラは説明していう。『その直接知覚が思惟を離れているということもまた自証に基づいてのみ知られるのである。「直接知覚が思惟を離れて直接知覚そのものに基づいて成立する」と説かれているがごとくである。』認識作用が自証されるというのは明らかに特徴的な仏教説である。ニヤーヤ学派によると、我々の認識作用をマナス(意)が認識する。ニヤーヤ学派によると、無分別知の存在は推論によって知られるのであって、内省によって知られるのではない、とされている。
 つまり区別や表示するものを結合したもの(あれは牛である、白いものである、等等)は思惟のうちにしか存在しえず、その区別や表示するものを仮立し、分別することを直接知覚としている。そうであるならばダルマキールティが考える「知識のみに限られたものであるのか」ということに対しての反論にもなるだろうと思える。

ニヤーヤ学派16体系を以前よりも掘り下げてみて思うこと
 はじめは16体系を用いての論議はどのように進行し、死や解脱についてどのような見解があるのか、ということに興味があったが、よく調べてみるとその論議に至る前の形式、つまり認識手段や認識対象、論証肢などがまだ理解不足だったことが分かり、今回はそれについて再考することになった。調べて理解していくうちに自分は本当は論議云々よりもその仮定の認識手段等に興味があったことに気が付く。今回の考察ではまだ解明出来なかったところを今後も考えていきたいと思う。

参考文献
『インド思想史』 
著:中島鏡正、高崎直道、原実、前田専学
出版:東京大学出版会
ニヤーヤヴァイシェーシカの思想』
著:中村元
出版:春秋社