20051011
既にこの時間になるとどの部屋も静かになるね。窓を開けて車の通る音や犬の鳴き声、風の音を聞いてると落ち着きます。冷蔵庫のゴーっていう音が少し耳障りだ。

完全に戯言、になるんだと思うけど、自分の多くを喋るのが億劫になったのは、きっとそれが全て真実ではないと考えてしまっているからなんだな。何回も言うように自覚している自分から発せられる自分についての言葉はどれだけ悲観的な言葉を用いて、どれだけ悲観的な考え方を晒したとしてもそれは自分の理想に限りなく近いものが多いと思ってしまっているからなんだ。誰しもそうなのかってのは分からないけれど、その尺度で色んな人と喋っているとたまに本当に反吐が出るんじゃないかと思ってしまうこともある。だから自分はあまりその手のことを意識出来る範囲内では喋りたがらないし、なるべくステレオタイプの意見しか言わないようにしてる(と思ってる)。自己顕示欲、という言葉に凄くマイナスの抱いてしまう。こんな感じで言葉には自分の理解スピードをあげるための主観的意見が多く内包しているんだよね。いつだか授業で「自己満足」のことを話していて、「自己満足の世界だ、と言われてることが多いけれど果たしてそれで本当に満足しているのか」ってなことがあった。そー考えると自己満足ってすげーじゃんと普通に感心してしまった。もし仮に「それは自己満足だー」と言う奴がいたとしたらそれは「自己満足だー、という言葉を放ったところにいる人間は自己に満足出来ている」ってことを認めていることになるんでしょ。本当に自己に満足できるようなことが出来るのであればそれは限りなく幸せに近いことだと思うし、その言葉を罵声じみた言葉で言うのであればそれは妬み僻みの部類にはいってしまうんだなーと。否定的な捕らえ方をしたまま自己満足を掲げ歩いてきた自分はどうなってしまうんだって疑問もあんだけど。これも前に書いたけど様々な言葉に自分が本当に意識しているのがどうか見当も付かない意味が付随し過ぎていることが多い。これが全ての悩みの原因なんだろうな、と。
そう考えると自分が選考でやってるニヤーヤ学派の考え方ってすげーなと。
『誤った認識が全ての苦しみの根本である』っつーこと。本当にそうだなと納得してしまう。昔の人はすげーなぁ。
いつかニヤーヤ学派のことについてブログに載せておこうと思います。気になるならそれを読んでくださいませ。