言語を超えて見えるもん

昨日おっさんと飲みながら話をしていて、自分がやろうとしてることを思い出したのでした。ゼミでやってることもそれ。あれですよ、知覚するってのを考えてるんですよ。
人間にはどのように情報が伝達されて処理されてるのかーとか、知覚する前の情報ってのはやっぱり表現出来ないものというところから抜け出せないのかーとか。そんなんです。某かの情報が自分に飛び込んで来て、経験やらなにやらってゆーよーなフィルターを介して認識される。一連の流れを知覚、と呼ぶんだな。で、その近くされる前の某かの情報ってのは、まぁさっき言ったように表現出来ないものってゆー範疇を超えられないのかしらと。表現てのは一般的に言葉に依存しているから、言葉で、と考えると、表現出来ない、と言えますよね。だけども表現てのは言葉だけじゃないわけだし。例えば名画やら名曲やらも表現であって、それら全てが言葉に依存していたかとなると違う。だけどもそうゆうようなものは視覚やら聴覚やらに依存していて、それを知覚するってなると、だいたいが経験っていうフィルターを介しているわけで。全部が全部そうだとは言えないし、絶対にそうゆうようなものを超越したものがあると思うけどね。純粋にそのものから発せられる何か、を直接的に理解?(少し言葉が違う気もする)しているかっていったらまたそうも言えない。うーん。

理解する、判断するってのはどうゆうことか、ってのを今に至るまでの研究のなかでやってたんですよ。んで、まぁインド哲学ニヤーヤ学派はそれに至までに提言やら経験やらと直接知ってのをあげているんです。先述した経験を介し理解する、言葉の助力を得て理解するのはやっぱり経験に基づいてるものです。直接知とは言えない。直接知をもって経験提言とゆーフィルターを介し理解する。じゃあその直接知ってなによ、と。それが情報の根幹にあるものなんですよね。限りなくクリアで不純なものを一切有さないもの。ん?もしかしてこれが真理なのか?真実というと語弊がありそう。や、自分の頭の中だけでの話だけど。

で、自分は素の情報というものを発信してみたいんですよ。知覚に至る前の段階の、まぁ真理らしきもの発信したいなと思うんですよ。リアル、ってことになるんでしょうか。で、ふと戦場に行けば何か分かるかなと思ったけど、戦場がリアルだというのも経験に依存して理解した結果だし、なにもないだね。とりあえずあれだ、こう考えたときにエロってのはすげーんだなって思う。本当に。経験とか飛び越えて起つもんは起つんだし。よくいう理性を失うとかも、もう、すなわちそれでしょう。まぁ、男の子に限っての話かもしれないけれど。で、突き詰めてみると快楽って何よ、とか、美って何よ、みたいな問題も出てくるんですよね。そこまで来るともうわけがわからなくなるけど、少なくとも関連性は確実にあると思う。快楽を追うのは人間として自然だし、なかなか純度の高いものだと思うし。

こう考えてみると、考えてそれを作ると考えている以上、自分が望むものは見つからないんだろうなぁ。近づくことはできるのかな。あれは違う、これは違う、っていうような判断は出来るけど、それ以上は出来ない気がする。それか、一般的に蔓延する情報に抗いながらも自分が思っていることを伝える、っていうのも、それに近いのかもしれない。だって、とりあえず経験というものから脱さなければ先は無い訳だし。

それと表現するってことはどうゆうことなのか、ってことも考えなきゃならないんだろうな。

高校んときに色々と行き詰まって(実際に、ではなく精神的に)何を信じたらいーのよ、と思ったのがキッカケでした。自分が思うことも誰かを意識しているのかもしれない、そう考えると何が本当なのか分からない、本当は本当なんて無いんじゃないの、とかとか。そう考えている時に手塚治虫ブッダを読んで、ブッダよりも懐疑論者サンジャヤに感銘を受けたのです。サーリプッタモッガラーナの元師(モトシて言いたいけど、変換したらゲンスイと一緒なのね)です。ブッダん中では『ここにものがあるのかもしれないし、ないのかもしれない』ってのを延々と繰り返してた。本当にそうだよなぁ、こんなこと言ってる人が大昔から居たんだなぁって。でも本当にそうだと今でも思う。

こう考えると、何にせよ信じるってことはとても難しいことだし、いわゆる嘘をつくってことと同じだと思う。自覚してるかどうかは別として。信じれることなんて一切ないんだから。もし、信じるって言葉の意味に嘘を含有するって定義付けがされているなら信じることは簡単なのかもしれないけれど。で、考えるとやっぱり狂信者ってのはすごいんだなぁって思うんですよ。自分の身を投げうって自分の信じていることを貫き通すんですよ。すごいことじゃないですか。マジで。話それるけどそう言った意味で特攻隊は凄いんですよ。それを考案した上層部はアホかもしれないけど、そうまでして散っていった(ヤク漬け等強要した面もあるのだろうけど、そうじゃなかった人もいたはずだ)人って、なんかもう、凄い。意識的に人間は生きてるわけじゃないし、無意識に人間は人間を生かそうとしてる。それに抗って、信じることが難しい世界の中で信じることを貫き通して散っていったんだよ。凄いじゃない。俺ぁ無理だ。

まぁま、こう長くああだこうだ言ったけれど、結局ニンゲンがニンゲンとして生きる為に他のニンゲンは必ず必要なのであって、その必要性からコミュニケーションをとらなければならないし、その為に最適な手段が言葉である以上、そこで生まれる不純物は既知のものとして考えないと、生きていくのも難しいんですよね。仕方が無いのね。

もうなにがなんだか分からなくなってきたけど、『今、何かがおかしい』的な発言の要因になってる犯罪の低年齢化やらモラルの欠如ってのは、少なからず、今日書いてる内容も原因の一つとしてあげられると思う。じゃあ昔はなんでそうならなかったのか。目的が確かだった、ってこともあるし、妄信できるものが幾つかあったから、ってこともある。国やら神やら親やら、そう言ったものを何か一つでも信じられればそうはならなかったはず。安定して、考えられる幅が広がってしまった結果なんだろな。人間は賢くなりすぎたら物理的にも精神的にも死んでいくのかもなぁ。バベルの塔チックに。そうやって間引くようにプログラムされてたりしてなぁ。そしたら神様とか信じるけど。


最後に、最初に戻るけど、完全にクリアな情報を発信するためにはー、ってので、やっぱり攻殻みたく電脳化するのが一番手っ取り早いかと。多くの人が理解出来る情報、パスコンで言うならアプリみたいなもんで、まぁOSとかそうゆうのはぶち抜いて、(たぶんOSてのがあったら言語と風土、つまり広い枠で言う経験の違いだろな)ほぼすべてのものが同じ情報を得られる仕組み。そこにはコンプーターが考えるってのはほぼ無い状態であるし、ありのままの情報が伝達されてくる。そうゆうのが出来たら本当に何の疑いもなくなるだろなぁ。
(アプリっつったけど、人為的なものではなくて、人間が普段の生活においてほぼ無意識に得ている情報のことを言いたかったのです)



ああもう、なんでこんなこと考えてるんだろう。きりがない。し、なんかもう全部リンクしてる気がする。自分の考えていることも、全てが全て同じ方向性を持っているとは思わなかったけど、関連性ってのは昔からあったのかなぁって思えて来た。おそらくこれってニンゲン全てがもつ話題なんだろうな。もっともっと深く考えたら色んなことが出来るかもしれないなぁ、なんて、こんな時間に考えてる俺はやっぱり無益なのです。アホー。