垂れ流す。

BJORKのAll is full of loveはなんで1なんだろう。
やっぱり素晴らしい。

MUMのGreen Grass Of Tunnelでスライドショーを作ろうと思う。たぶんぜんぶ雨のイメージ。雨のイメージはなんだか非現実的な気がする。勘、性みたいな感じ。が、どこか正解を模索している。自分が産んだと思っているものを平気で他人に譲与している。気がする。だけか、や、元からそういうものなんだろうか。正解を決めるのは何か。秩序か、順序か。自分、か。酒か、自分か。曲がらないカーブ。

スキマ探し。にイトマが無い。鏡はどこか。必要なのか、や、ずっと必要なのだろう。左の唇からこぼれるビールは自由の味がする。瓶で飲むビールと同じ味。だんだんと見えてくるプラスチックの枠が自分を追いやる。自分もプラスチックになって対抗してやろうなんて今では思う。笑いは共有出来ないな。何にせよ過去がモノを言ってしまう。

安息、安息は実態を掴めてこそ。虚像なれどそれを盲信することにある日常生活。限界を置いた上で起こる異常な自然は完全なる安息。それのまがいものを自分の過去や意志にトレースさせ、イミテーションを作り上げる。もしかしたらそれこそが安息なのか。

ともあれ、イミテーションであれ、その反応に一喜一憂し、ともするとそれが一日の原動力になってしまっている以上、それが全てなんです、って言わなきゃいけないよな、既に。悲しいことではない。寧ろ奇跡に近い喜ばしいことだ。

ゼロに立っているという自信とマイナスに立っているのではないかという不安。逆も然りで、それによって世界とのコミュニケーションが違いすぎるような。よく言えば内省している?と言えるのだろうか、それは外界と結びつくことがあるんだろか。逆は無いとしたら、それはそれであるのかも。だけどもなかなかコネクトしない。物事の考え方の、というか接し方?アプローチの方法はそれ無しではままならんもんだとは思う。審美眼、模倣、付け焼き刃、挫折、の果てに見えるのが、今迄のそれとは違うものなのかもしれない。な。今はまだそれを言葉に置き換えることは出来ないけれど。ずっともう出来ないかもしれないけれど。無神経にひとつの方向を走っている感じも否めないけれど、それでもこのベクトルは今の自分にとってなかなかスパークしているところでもあるんじゃないか、なんて思う。作った気はしないが産まれてはいる、ような。ああ、なんだこれ。
このまま五感の話に突入する筈なんだが、昨夜悶々と考えて、見えた一筋の光明は忘れてしまったので。

五感の話はまた今度。