トランキライザーと言っても過言でないような。依存して居る。が、今では良い付き合いだ。

川を背に足跡を眺めてあざけり笑う。涙。振り向けない自分がいる。彼の岸は飛び越えればなんとか届く距離。その先に何があるかは知らない。何かがあることしかしらない。此の岸には知っているものばかりで、それを積んだり崩したりしながらあざけり笑う。涙。

夢を夢見るという、そこまでだ。

あの日の自分は何を望んだか、それは今の自分を見て、元気をあげられるか。あの日の自分が灰色であったことを当時の自分も今の自分も知っている。
まだ先に思いを馳せるのか。同じレールにそれは無い、というのか。あの日の自分を殺すのか。また、泣かすのか。

変わってないと、これから先も言うと思う。たぶんそれはずっとそう。だけど見えている幅と選べる幅は前に比べて格段と違っている。あの時の自分が背中を押してくれていることを感じる。『何の為に泣いたんですか。我慢したんですか。』と。
他人痛く他人。自分すらも。それだからこそ活力になるものもある。今の足下を見ることが出来ない。けれどそれも活力になり得る。どうなろうが、どう足掻こうが、どう陥ろうがどう舞い上がろうが、一貫して求めているものがある。それが停滞を促すようなものに見えて、実は喧々囂々切磋琢磨しないと得られないような現実なのかもしれないが。それを抑える精神力が欲しいのか。その状態に在りたいのか。分からないのだが、今このまま燻ると、あの日の自分が報われない。あの日の自分が報われない。報われない。望みを託したのだぞ。

考えと行動が一致する日は来るのかどうか。んなもんシランが、今出来ないならなんとかするしかないだろう。出来るだけの悲しいくらいの自由がここにあるのだから。見つけろ、つなぎ止めろ、生かせ。生きるぞ。生きてやるぞ。



生きてやるぞ、見てろよ。