■
20050812 AM26:29
酒∞ こんな日が続く
- アーティスト: BRAHMAN,TOSHI-LOW
- 出版社/メーカー: イレブンサーティエイト
- 発売日: 1998/12/04
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (50件) を見る
1.実家に帰って数日が経ちました。
通常のほうで書いているとおり今日は何も無く。かと言って考えることも無く。知人数名に連絡を取ってほぼ強引に約束を取り付けて。今までならなぜか連絡を取らないだろうと思えた人にも連絡をして。結局のところ同窓会みたいなものも開くのだけど。実際おっかなびっくりなところ。無意識に他人と自分を比較してしまう自分がいるために大きく時間を空けてしまった誰かと会うのは怖い。同じく少し惰性で居られるのならば良いのだけど。自分をなるべく悟られないようにしている自分が想像できる。そっとしておいてくれという気持ちもあるのだけれどそれだけでは無いみたい。かねてから自分のキャパやポテンシャル以上のものを他人に見せるのが好きで。そこには虚像しかないのだけれど騙し騙しやっていく自分が好きで。というかぬるま湯に浸かっているみたく居心地が良くて。そこに甘んじているんだけども。そこから抜け出してしまって寒い思いをするのがキライ、苦手で。その寒さこそが現実なのになかなか認めようとしなくて。そのギャップやツケが今の自分に降りかかっているのだけど。だけどもわざわざそんなような環境をなんで自分は自分から作り出したのかしら。どっか最後だと考えていて。何かを探したいのかもしれないけれど。あと邪なものも若干含まれるのかなたぶん。
2.人に会う
何某か自分が優位に立てる場合じゃないとなかなか快諾し難く。それは京都にいるときも含まれることで。そんなんで渡り合えるのかしらと強引に改善しようとする自分が居る。大事なことですね。人と会うことは自分の財産を増やすこと、とゆーよーな座右の銘があるのだけど、自分のなかで他人を見るのはいつもどこか待避所(理解者)を探してることが多い。危険を伴うけれど自己の発展を促してくれそうな人、は自分の中で自然と淘汰されている事実。自分が持つ尺度、を実存する人間に変えてほしくないと考える自分が居る。人の言うことを素直に聞くよりもその助言を無視して後悔してはじめて実体験となり自分に還元されていく、そんなようなシステムを用いているため、というかどっちが先なのやら。わからないけれど。頑固、といえば幾分か響きはいいけれど馬鹿といってしまえばそれまで。その馬鹿さも重要なんだけどね。折り合いがつけば。
結局のところ誰かを理解している、てのは事実なんだけどそこに自分との折り合いを考えている。損得とか。利己的で独善的な自分を嫌と言うほど納得させられる自分の行動。どこか本能的ともいえるようなプロセスからなるそれ。見聞を広めたつもりでも結局は自分の意を多くの賛同を元に(場合によっては当たり前の事実を核心に近付ける為でもあるが)真に意味を成す言葉、大衆的な真理、に近付けるものになっていること。まるで逆のこと。理解する、のはそこまで難しいことではないけれどそれを自分の中にくみ上げて考え直すことが難しい。あ、言葉が先行してる。
たまに自分が文学部にはいって本当に良かったと思えるときがある。多くを考えずに嗅覚だけで自分の向いた学問を選べたのは本当に幸せなことだね。
3.なんだかいま思うこと
別に番付けする必要は無いのだけど。前述したように『自分が感じている世界』よりも『他人が思う自分を根本としている世界』に重きを置いてしまっている自分が根本にあるため、カメレオン的意見交換交流を余儀なくしているわけだけど。そんななかで他人と意見を交換するにあたり自分の経験に基いて返す言葉を捜している。当たり前のことだけど。どこか考え方や接し方ってのは段階を踏むことが多くて。誰彼がこのように考えていたのならば次にそれはこうゆう風に考えるのではないか、という憶測。得てして占いとか自分の先のことに興味がある人間がやっぱり多いみたいで(自ら先を切り開いていく人には無意味。なにか事象に自分の未来を委ねる人に大いに有効な手段と言える。)そゆよな人には意味があるみたいで。自分は後悔を持って実体験として真理に近付けようとするためどちらにも含まれない(こともないかなぁ)けれど。けれどそゆよなもんが一時的にしろあるのは間違いではないと思うのよ。自分を付け上がらせているのかもしれないけれど。法則みたいのがあってさ。どっか既存の情報に依拠してるものがおおくて。かくいく自分もその手のものなのだろうけど。小説とか絵本とかと同じような展開を望んでるのが多いのよね。かくいく俺も云々。実際ちげーだろうよ、と言いたいんだけど。なにかと便利なことが多いので。何もしないというか何も出来ないので。見てることしか出来ないけれど。
こゆよなのは昔からあるなぁと。
にしても否定的、というか自分の意見を素直に信じなさ過ぎる自分。これがニュートラルな手法を用いて改善されていくのであれば凄くいいことだと思うけれど。それとは別に知り合いが次々に社会に飛び立っていって。や、別に疎外感を得るとか言うわけでもないのだけど。みんなそれぞれ違った人間だったけどその門は一緒だったのかとゆー。(その先にあるものは全員まったく違うものだったけど)どっかうちの学校(小中高校)は最低限の社会観念?みたいなもんを植え付けていたのだなぁと。根拠は無いけど。まぁまぁ。