ネタバレ要素をかなり含むので気をつけてください。




ゲド戦記を見てから自分にやたらフィードバックしてきてすこし鬱になる。影と思っていた存在が無くした光だったとは。よくある話とも考えられるのだけど。実体験や過去、自分てのを比較してみてみると少しかぶりすぎて嫌になる。若干違う点もあるのだけど。

ここで言う光は闇と混在するもので相反するものではない。可視範囲を伝える光ではなく、そしてそれから生まれる不可視範囲の闇というものではないみたい。だけど光と闇、一見相反するような気配をうまく掴みながらどっちでもないように話は展開しているようにも思える。『見えぬものこそ』というキャッチと『本当の名前』というものをテーマに持ち上げているからだ。どっちが言いたいのか、結末に全ての物語が集約するのであれば恐らく前者であり、とても日本的な解釈で今の日本への標語に成り得るような健全な物語であるのだと思う。だけども、『本当の名前』と『見えぬものこそ』といったキャッチなりテーマのほうが個人的には興味をくすぐる。

知れるもの、を可視範囲と考えるのが好きで、その裏にある闇にも不可視範囲なれども何か実態があるんではないかと思うのが好き。光は知り得る情報の全てであって氾濫する名前そのものでもある。氾濫する名前も今となっては擬似的に意味のある名前、つまり本当の名前として通用しているものになる。名前、という概念のなかで既に本当とか言う真実に近い意味なんて無いのだろうけども。そこが矛盾しているというか、分かりやすく表現してしまったがために誤謬を多く含む語句になってしまっているのが少し残念だ。

ちょっとずれた。光=無くした自分、曇りなき眼?で世界を見定めるもの、要約すると自らに限界を置き、その天井に怯えている自分?なのかしら。可視、という観点で考えるのであればやっぱりそれは自分だけしか知りえないものであるから光であるとも言える。見落としているもの、相対的な観点、自分が所属する世界、社会、それが闇に当たり、以前はそれも自分を内包しているものの一部であった、んだな。それが剥離してしまった要因は何か、父殺しを始めに描写したのは単に実の親父(駿)に対するカウンターなんてものではなく、闇をより鮮明にするもの、見えない敵、自分の中にしかいない敵、アレンに対し、これから来る世界、社会だったわけだ。あれがなければ闇の正体に納得がいかないし、あれがなければ池で闇に追われ逃げていくアレンの描写も理解できるものではない。逃げたいのもよく分かる。

少し考えてみる。世界や社会(人のつながりというクリーンなイメージのみとして)をつぶさに見ている自分を闇として逃げていたアレンは最終的にはその『闇』を受け入れ、テルーの真の名前を叫ぶ。そして自分を取り戻したようなアレンは自分の罪を受け入れ、ハッピーエンドで終わる、ってな具合なんだけども。
ポートタウン、でしたっけ、まがい物がはびこる町の中で『闇』から逃げる様を見ていると、彼が逃げていた『闇』にもクリーンなだけではない社会や世界が出ているのではないか、つまりそれと合一してしまったために『本当の名前』はいずれ忘れてしまうのではないか、とも思ってしまうんです。もしそれが真意だとしたら監督すげーってなるし、最悪だけども好きだなーって思ってしまうし、かなりマッドな人なんだなーって思うし、笑えないしありえることでもあるよなーって思ってしまうんです。それはそれで非常に面白いんだけども。

光、は全ての情報のソースになるものと考えていて、そこから生まれる闇は邪推ではないかというのがゲド戦記とはなんら関係なく、個人的に思っていることです。光が無ければ闇は存在し得ないけれど闇が無ければ光が存在しないということはないのです。闇は常に光に追従し、光あるトコには必ず闇があるのです。まったく映画とは関係ないオチをつけますけども、全ての情報には闇があり、光を常に受けながら考えている人間は闇という名の邪推の魔の手から逃れる術は無く、唯一それから抵抗し得る手段は信じることのみだと思うのです。不信の対極にある信ではなく、絶対的な信、にのみ闇から逃れる術があると思うのです。信にのみ真が宿るんですよきっと。あ、上手いこと言った。