200708290223

そいえば昔同じよなこと繰り返したっけ。


瞬間を綴る物的証拠。それは記した本人すら忘れてしまう、ちっぽけなものなのだが、それは確実にその瞬間に産み落とされ、そして死ぬ。そのときおもったこと、といえば聞こえは良いが、そんなものを常に携えながら人は前に進めようか。そしてそれを常に、起き忘れや、置き引きや、故意に因る遺棄云々をしていない、と言い張れるものだろうか。


そのとき、今を見ず、過去の延長と錯覚し、未来に憂うフリをしていた。そこに今は無い。そのときはまだ時間が止まっていた。そのときは既に、時間が止まっていた。方々から発せられる言葉は全てを断言していて、まるで疑う事の無い内容に満ちている。本来ならばそうあるべきだった。のだが、路頭に迷っていた自信は、疑心を拠り所にするほか無く、全てを煙に撒いていた。

すべては時間が形成していて、自らもそれを有耶無耶に信じ込みながら、なんとか形に出来た矢先に、今迄の事態を知る事になる。何が今の自分を形成していて、どれだけの犠牲の上にそれが成り立っているのか。を。


結果的に、その証拠が無ければ今の自分は状況の理解に至らなかったのかもしれないけれど、やっぱりその物的証拠は生まれた瞬間、死んで行く者であって、そこに意味を見出すのは少し悲しすぎる気がする。なにせ、生み出した瞬間、親はそれを殺す事を決意しているのだから。そしてそれを次の自分の糧にしているのだから。

おそらくそこに楔は無い。楔は所詮、楔であって、いつか錆びて折れて、致命的な出来事を引き起こす可能性がある。何も言わずただしんしんと、それだけを考えていれば良い。


それだけで良いはずだ。