淡麗グリーンロング缶×4

自分が見てる世界と自分がいる世界は少し違う。この違いはたぶん大抵誰にでもあるもの。無かったら人間こんなとこまで来てない。世界って何ですかって聞かれてナンダローと思っていた時とは少し変わって来ていて、見てる、と、居る、でそれぞれある程度は言い訳出来る様になってきたような。誰かと交わるうえでこのふたつは仲良く混在しているようです。まだ説明出来ない自分が見ている世界予備軍はたくさんあるようです。この予備軍を色々な物事との接触を経て一様の理解を経て、見てる世界と居る世界に区分されていくような感じ。体験が知識になっていく感じ。一方通行で簡単な仕組みを経て体験は知識になっているようだけど、その経過というのは実はとても複雑。頭ごなしの知った言葉は言伝を経験を持って改めて意味を込めて行く。その作業。それが世界の作り方。
見てる世界と居る世界はこのような作業をしていくにつれて、いつかひとつになるのだろうか。たぶん、なるような気がする。
このふたつは自分の意志と行動が剥離しているような錯覚(最早現実なんだけども)に起因している。剥離している事実を認めると、なぜかその剥がれ具合はだんだんと縮まってきて、今では仲良く一緒に住んでいる。それで一緒に考えている。

分からない、ということ、が分かった、ような気がして、そこから見える世界は限りなく白に近い灰色。ポジティブな白でなく、ネガティブな灰色でなく。あらゆるものが許せてしまったのはそこに信じることがなかったから。つまり自分が居る世界見てる世界がよく分からずにごっちゃになっていたからだ。剥離してんだから別に各々考えれば良い。

無闇に信じるなよ、なんて言うけれど、疑いを重ねないと本当に信じることなんて出来ねんだ。それは美徳でもなんでもない。信じてる事実は認めよう。けど、信じている、ということ、は信じない。なるべく俯瞰で見る。ネガティブでもポジティブでもない意志を持って。